2012年10月18日木曜日

幻:和歌の教科書

この帖は、正月から大晦日までを描いている。そして、同時に、季節に応じた、多くの歌が、紫の上を失った悲しみとともに、光源氏を中心に、歌われる。

短い帖ながら、この帖自体が、和歌の歳時記のような存在になっている。

この帖は、次の歌で始まり、

(光源氏)わが宿は花もてはやす人もなし 何にか春のたずね来つらん

次の歌で終わる。

(光源氏)物思うふと過ぐる月日もしらぬまに 年もわが世も今日やつきぬる

幻:光源氏の死を描く

御法の帖では、紫の上の死を、真正面から描いていた。

この帖では、光源氏の死は、直接的には描かれていない。しかし、次の帖の冒頭で、源氏の死が告げられる。この幻の帖は、源氏が登場する、最後の帖。

この帖では、直接的な源氏の死は描かれていないが、この帖の光源氏は、文字通り、魂が抜けた抜け殻のような存在として描かれている。

紫の上の死によって、実は、光源氏も、実質的には、死んでしまった、ということなのだ。

この帖は、その意味では、光源氏の死を描いている、ということができる。

幻:悲しみにくれる光源氏は理想の男性か

最愛の人、紫の上の死に、光源氏は、悲しみに暮れる。何をするにも、紫の上を思い出し、人に会うのも、うっとうしくなる。

かつて、若き日の光源氏は、どんなタイプの女性であっても、それに応じた愛で答えてくれる、女性からみた男性の理想の姿として、描かれていた。

若菜以降、存在感が薄くなっていた光源氏が、この帖では、最愛の人の死を、ひたすら悲しむ、初老の男として描かれている。

それは、別の意味で、女性から見た、理想の男性の姿なのかもしれない。自分が死んだら、この世を厭い、出家したくなるくらいに、悲しんで欲しいということなのか。

御法:秋好中宮からの消息

かつて、紫の上と、春秋論争を繰り広げた、秋好中宮。

彼女は、悲しみに暮れる、光源氏に、次のような歌を送る。

(秋好中宮)枯れ果つる野べを憂しとや亡き人の 秋に心をとどめざりけむ

(光源氏)のぼりにし雲井ながらもかへりみよ 我秋はてぬ常ならぬ世に

御法:致仕の大臣と光源氏の交流

紫の上の死にあたり、光源氏とはライバル関係にある致仕の大臣も、弔意を表す。

(致仕の大臣)いにしへの秋さへ今の心地して 濡れにし袖に露ぞおき添え

(光源氏)露けさは昔今ともおもほえず 大方秋の世こそつらけれ

かつて、若き頃、秋の長雨に、女性談義を交わした頃を思いだし、今は初老を迎えた二人が歌を詠み交わす。

人生の哀愁を感じる、印象の深い、二人の歌のやりとり。

御法:紫の上の死をひたすら描く

この帖では、光源氏の最愛の人、紫の上が、死を迎えるまでを、悲しみのトーンの中で描いている。春に始まり、秋の訪れとともに、紫の上は、帰らぬ人となった。

この物語の中では、これまで、何人かの人の死を描いてきたが、1つの帖すべてを、一人の死にあてるのは、勿論、紫の上の他にはいない。それだけ、彼女の存在が、この物語の中では、別格であることを表している。

死んだ後の、紫の上の美しい死に装束のなどの話まで描き、これほど、死について語った物語は、珍しい。

この物語の作者は、この帖を描いたことで、明らかに、何かの一線を越えたような気がする。

2012年10月8日月曜日

夕霧:たったひとつ父の光源氏に勝る点

夕霧は、この物語では、すべての点で、父である光源氏に劣っているように描かれている。

母が、光源氏とは微妙な関係だった、葵の上というせいもあるのだろうか?

しかし、その夕霧が、父の光源氏に勝っている点がある。

それは、夕霧が実に子だくさんであったということだ。逆に言えば、光源氏の唯一の弱点は、子が少ないことだった。

夕霧は、正妻の雲井雁との間に8人の子がいて、さらに、藤典侍との間にも4人。合計12人の子沢山。

これだけの子がいれば、光源氏に子が少なくても、彼の一族は、安泰だ。

夕霧:雲井雁という女性

夕霧の正妻である雲井雁。この帖では、彼女の個性が炸裂する。

夫の夕霧が、亡くなった友人の柏木の妻、落葉に浮気心を抱いてるのを知り、あからさまに不満を面に出して、夫を責める。

夕霧は、かわいい妻をこれまで甘やかしてきたため、こんなことになってしまった・・・と呆れるばかり。

雲井雁は、夫が自分のことを”鬼”よばわりすると、”どうせ私は鬼ですよ!”といじけてみせる。

そして、ついに夕霧が落葉を妾にしたとたん、怒りが天に達し、実家に子供を引き連れて帰ってしまう。

夕霧:光源氏がいない方が面白い

この帖では、光源氏はほとんど登場しない。

主な登場人物は、夕霧、落葉、一条御息所、そして雲井雁。

光源氏が主人公でいる限りは、問題はすべて彼が解決する。光源氏が女性を思っていれば、彼が幸せにし、他人の問題も、彼がそれとなく解決する。

光源氏が表舞台から、後に引っ込んでしまったため、先の四人は、自分たちで問題を解決せざるを得なくなり、それが出来ずに、右往左往する。

しかし、その方が、物語としては面白い。読んでいる方は、”どうして夕霧は(あるいは落葉は)、あんなことをするのかしら・・・、このようにしないのかしら・・・”と、焼きもきしながら、読み進める。

夕霧:鹿のように自分も泣きたい夕霧の心

夕霧の立場からすれば、落葉のかたくなな態度は、全く理解できない。

死を目の前にした友人の柏木からは、自分の亡き後、妻の落葉をよろしく頼む、と請われていた。

母の一条御息所も亡くなり、柏木の父もあまり落葉に好意的でない状況で、落葉の選択肢は、自分の元に来ることしかあり得ない。

それなのに、落葉は、なかなか自分に心を許してくれない・・・

そんな苛立ちの中で、夕霧が詠んだ歌は、

(夕霧)里遠み小野の篠原分けてきて 我も鹿こそ声も惜しまね

(少将)藤ごろも露けき秋の山人は 鹿の鳴く音にねをぞ添へつる

夕霧:皆が不幸になっている

かつての天皇であった朱雀院は、二人の娘のことで、思い煩っている日々を過ごしている。

朱雀院の后だった一条御息所は、娘の落葉の行く末を心配し、ついに、物の怪の力に屈して、亡くなってしまった。

落葉は、しつこく迫る夕霧に、憂鬱な日々を送っている。

その夕霧は、なかなか自分の愛を受け入れてもらえず、しかも、妻からは浮気を疑われている。

夕霧の妻、雲井雁は、夫の不倫が真実とわかり、実家に帰ってしまう。

夕霧の父、光源氏は、そうした事態は、すでに自分の力ではどうすることもできない、と諦めてしまっている。

この帖では、誰もが不幸に描かれている。そこには、”王朝文化の色恋の物語”という、この物語につきまとうイメージは、微塵も無い。

夕霧:現代の家族ドラマのようなシーン

小野に住む、一条御息所からの手紙を、不倫相手のものからではと疑い、雲井雁が取り上げるシーン。次のように、描写されている。

女君、もの隔てたるやうなれど、いと疾く、見つけ給うて、はひよりて、御後より、とり給うつ。

まるで、テレビの家族ドラマの1シーンのような展開。このシーンは、昔の人々も印象深かったようで、有名な平安時代の源氏物語絵巻にも描かれている。

夕霧は、この手紙をなかなか取り返すことができず、返事が来ないことがきっかけで、一条御息所は、死を迎えてしまう。

無邪気な(妻の)悪戯心が、悲劇を招いてしまうという展開も、後世の小説の中ではよく登場するパターンになっている。

夕霧:朱雀院の娘を巡る複雑な人間模様

朱雀院は、自分の二人の娘のことで、心労が絶えない。

女三宮は、光源氏の元に嫁がせたが、柏木との不倫が原因で、この世を厭い出家してしまう。

もう一人の娘、落葉は、その柏木に嫁がせたが、柏木の死後、その友人の夕霧に懸想され、ついに、その妻になってしまう。

朱雀院の娘を巡るこの複雑な人間模様は、当時の、意外に狭い、王宮生活の生活圏を表しているのかもしれない。

夕霧:小野を舞台にした悲喜劇

柏木の妻、落葉への思いを断ち切れない夕霧。そして、それを心配する一条御息所。三人の悲喜劇が、都の中心を離れた、小野の地で展開される。

ひぐらし鳴きしきりて、・・・、水の音、いと涼しげにて、・・・松のひびき、木深く聞こえわたらせなどして・・・

秋を迎えた季節。そうした、作者の描写が、そうした悲喜劇の雰囲気を、さらに盛り上げていく。